今春、実家に帰った際に仏壇に納めてある家系図を改めて見た。
農民だった。
自身の血液というか血筋の1マイクロミリリットルくらいは鎌倉武士だろう、という気概で生きてきた自分にとってこれは衝撃だった。「三十にして立つ」などと孔子は言っていたが、三十にしてアイデンティティーの足場がぐらつきはじめた。
名乗りを上げつつ稲を植えるゴリラなどいない。なぜなら疲れるから。今日は名乗らない。
絶対に空を見上げてはいけないのか?
それで、また映画を紹介された。『NOPE/ノープ』という映画だった。
この記事が載るのはおそらく感想を述べる回の少し前であろうからあまり内容に踏み込んだ話はできないが、恐怖とどこかシュールな笑いの緩急のつけ方が上手く、観ていて飽きない映画だった。自分の友達というか血筋が近い生き物も重要な役どころで出演している。
この映画のBlu-rayを購入した際A4サイズのポスターがついてきて、これはAmazonの温情で同梱されたのだと思われるが、そこにははっきりと「絶対に空を見上げてはいけない」との但し書きがキャッチコピーとして書かれており、自分は顔をしかめるばかりであった。
「この書き方では見上げちゃうな」と。
信じられない輩は存在する
世の中の多くを占めているまともな人間には窺い知れない世界だろうが、世の中には一定数「~してはいけませんよ」という言葉を目にすると、あえてやってみたくなるような信じられない馬鹿がいるのである。
自分も「エレベーターの中では飛び跳ねたり、ゆすったりしてはいけません」という但し書きを見るまではそんな真似をする考えがなく、目的階までじっとしていられる良い存在だった。
しかしある時、その但し書きに気づいて注視。言葉を解さぬものに対してのダメ押しとして描かれている、児童ら数名が野蛮な笑みを浮かべながら飛び跳ねているイラストも凝視。
「そういう乗り方もあるのかぁ……」「どんな感じなのかなぁ」と気になってしまった自分はすぐさまその場で跳躍を始めるに至ったのである。
つまり、「~してはいけません」系の但し書きが戦わなければいけないのは、年端もいかぬ児童と、なにより自分のような手合いの輩で、本来ある程度成熟した人間に対してはいちいち但し書かなくても全く問題ないのである。
注意するな。リスクを述べよ。
児童に関しては但し書きを併用した各家庭での教育に注力していただければと思うのでここでは論じない。
問題は、児童であったのがはるか昔であるにもかかわらず、未だに行動の制御が効かない輩なのだが、これに関しては当事者として妙案がある。但し書きは、下記のように少し文面を変えるのがよい。
「飛び跳ねると○○になりますよ。いいんですか?」
○○には、行動に伴うリスクを表した言葉を入れるとよいだろう。
実感がわきやすい不幸
といっても、「飛び跳ねると足場が落下して死にますよ」「飛び跳ねるとなんとかという罪で裁かれますよ」みたいなのは効果が薄いと思う。
この但し書きが相手にしているのは、危機察知能力が著しく欠如した想像力に乏しい自分のような生き物であることを忘れてはならない。
この国はありがたいことにかなり平和である。そんな中で「死にますよ」と言われてもあまりよくわからない。死が身近にないから想像できない。「裁かれます」も同じ理由で、常日頃隣人が公権力によってどこかに連れていかれ、数ヶ月後に全く別の人格になって帰ってくるような環境じゃないとやはり想像しづらい。
肝要なのは「実感が湧きやすい不幸」を設定するということだ。
これは例えば下記のような文章だ。
- 飛び跳ねると数日後に配偶者の不実が発覚して精神に大きなダメージを受けますよ。いいんですか?
- 飛び跳ねると夏頃ここぞという場面で失態を晒し、以降日陰者として生きていくことになりますよ。いいんですか?
- 飛び跳ねるとあなたのペットが近日中に大きな病にかかりますよ。いいんですか?
ほら。跳躍したくならない。
なんだか想像できる範囲の嫌ァな未来になってしまうよう干渉されるようで、行動を控える気になるというわけである。
『NOPE/ノープ』の但し書きはどう書くべきか
こういうことを言うと「跳躍行動と関連がないリスクに何の意味があるのか」などと主張する人が出てくるかもしれない。
だが、いつまでたっても雑誌の占いコーナーがなくならない理由を考えてみるといい。どれだけ根拠が乏しく脈絡がなくても「今後のお前はこう」と言われると、頭の中で意識してしまうのが人間の性のはず。
理論は完成した。
そうとなれば善は急げ、すぐさま『NOPE/ノープ』のポスターに書かれた未熟な但し書きを訂正する作業に入った。
「絶対に空を見上げてはいけない。見上げた場合、明日の仕事は何もかもうまくいかず終電で帰ることになるし、おまけに記録した情報がクラッシュして、すべて無意味になり翌々日も出勤する羽目になる。仕事がいよいよ嫌になり豆や花を売って過ごすのもいいかもなあと夢想し始め、無断欠勤の末退職し、豆や花も売れず路頭に迷います。それでもいいんですか?」
かくのごとく生まれ変わったポスターを眺めていたら、強く仕事のことを意識し始め、なんだか仕事に行きたくなくなり、豆や花を売って細々と生活していくことはできないだろうかと真剣に悩み始めた風の強い春。