怠惰に牙を剥け

別の世界線のギリィの、とある1日。


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(一)

いつからだろうか。

例えるならイソギンチャクとかに生まれたかった、と起床前に必ず思うようになったのは。

彼らは適当な岩場にくっつき、海流に揺られながら海水を吸い、吐き、たまに近づいてきた生き物が勝手に触手に触れて気絶するのでそれをもそもそと食べ糞を垂れ流す。

そういう義務もへったくれもないイソギンチャクのような生活に憧れていたのだ。

毎日朝6時に起き上がり、灰色の部屋の中で洗口液を口に含む。その後歯ブラシを咥えつつ、着古した仕事服に着替える。トイレに行きたい気もするが時間に余裕はない。すぐに家を出る。

この際、昨晩やけになって飲んだ酒が頭と胃の不快感として体に残っていることを意識してはいけない。倒れてしまいたくなるから意識してはいけない。

起きなくてはならない。

仕事に行かねばならないから。

仕事に行かないと銭が得られず飢えて死ぬから。

朝食は食べないのが常だ。だがこれは、圧倒的に間違った行動だ。自分だって朝食を食べた日の方が頭が冴え、なんとなく気持ちが上向きになることはわかっている。でも寝ていたい。時間ぎりぎりまで。

朝食を食べるとなるとベーコンなんかを焼いて、卵を割って、ああそうか昨晩のビリヤニがこびりついた皿なども洗わねば、あれ? 箸はどこ行った? なんつって時間が過ぎていく。

そういうことを考えるともっと早く起きねばならぬし、早く起きるということは眠いのはもちろんのこと、より早くから仕事の事を意識して動くことになってしまうからだ。

具体的には5時くらいから仕事のために行動をすることになる。

そうなるとすべての物事に「仕事に行く前に」という枕詞がつく。

仕事に行く前にベーコンを焼いて仕事に行く前に焼いたベーコンの上に卵を落とし、仕事に行く前にビリヤニ付着皿を洗う。

結果、目の前の事すべてが仕事の手先と化す。それならば寝ることを選ぶ。

といいつつも脳に染み付いた労働者根性は大したもので、じつは5時半ごろには布団の中でうっすら覚醒をしている。

それでも起き上がることはしない。

起きればそこからの行動はすべて仕事にベクトルが向いた行動となり、それはすなわち早起きをして義務に人生の時間を注ぐということだからだ。

イソギンチャクはそういうことはしない。

(二)

その日。駅に着くと、もう改札口に人が溢れていた。

前の学生が「改札壊れたらしい」と、おそらくバスの利用を検討しながら早口で仲間に報告をしている。その視線は背後の改札と人ごみの先にあるバスロータリーをあわただしく行き来していた。

致命的だった。

先に紹介した「限界惰眠メソッド」は交通機関の遅延に非常に弱い。

心臓の音が途端に大きくなり、背骨と肺の間に焦燥が確かな感覚を以て割って入る。
右足に激痛が走った、先の学生が「バス来てる、来てるって」と言いながら私の右足を思い切り踏みつけて走り去っていったのだった。

去っていった空間に、学生の前にいたであろう巨漢の男のひどい汗の臭いが運ばれてきた。思わず鼻を手でこすると、肘が隣にいた女学生にあたり舌打ちが返ってきたので、慌てて謝りつつじっと地面の点字ブロックを見る。ブロックの黄色とは異質な黄色を持った特大の痰があることに気づいた。

この瞬間、昨晩ビリヤニを食べながら見た『孤狼の血』という映画を思い出した。

テーマや、名シーン、画作り。

それらすべてを差し置いて自分を魅了したのは、序盤・中盤・終盤隙なく漢気むんむんで野生むき出しな雰囲気であった。

それぞれが自分の信念や衝動に対して素直に、真摯に、遠慮なく行動していた。全員がどこかギラついていた。

何かを成し遂げようと必死だった。

少なくとも「イソギンチャクになりたい」とのたまう腑抜けはいなかったように思う。

そうだ、それで酒が進んだのだった。久々に脳が熱くなったのだった。

私は、いや、俺は本当はイソギンチャクになりたかったのではない。狼になりたかったのだと自覚した。欲を言えば巨シャチになりたい。

そういえば幼少期妹とごっこ遊びをするときはいつも、王国を破壊する怪獣役を買って出ていた。姫に扮した妹が「そういう話じゃない」と涙ながらに懇願してもかたくなに、妹が積み上げた積み木の城を欲望のままに壊す怪獣を話にねじ込んでいた。

断じて俺は黙したイソギンチャクではない。根っからの――。

生き方は思い出した。あとは自分にできることを精一杯やるさ。

心の夏油くんもサムズアップ。

(三)

すぐさま喉の奥から「ぐがかぁぁぁぁ」と音を響かせ点字ブロックの痰の上に自分の痰を吐きかけた。目障りなんじゃぼけっと悪態もついた。いきなり激高しながら痰を吐き始めた男に、ぎょっとした視線を注ぎつつ周囲にいた人間がそれとなく距離をとった。

おかげで改札までの距離がぐっと縮まり、悠々と歩く。巨漢の男を追い抜く際に「これ使いんさい」とデオナチュレを渡し後ろ手でひらひらと手を振り改札をくぐった。

仕事に行かなきゃいけないという強迫意識が日々自分をイソギンチャクに変えた一番の要因だ。

仕事の疲れやストレスが「打ち据えられるくらいなら横たわっていたい」と思うような逃避人間を作ると、シャチと化した自分は見抜いていた。すぐさま携帯を取り出し職場に電話をし、課長が電話に出るなり「もう行かんけぇ。あとはあんたらで勝手にしんさい。あと、前から言おう思うとったけど、われ紙を配るとき指ねぶるの気持ち悪いんじゃあ、あとわれ不細工なんじゃあ」と怒鳴りつけて切電。そのまま駅の大便器に携帯を投げ入れ用を足した。

その後電車に乗り、前から行ってみたかったインド料理屋に行き朝ビリヤニをキメて、日当たりのよさげな路上で平和の歌を口ずさみながら寝転ぶ。今まで気づかなかったが空気のにおいが冬とは違っていた。

暖かい風に花のような、いのちの香りが混じっている。遠くの家屋から「エッオー」という陽気な声と幼子の屈託のないはしゃぐ声がうっすらと聞こえる。青い空に一筋の飛行機雲がゆっくりと引かれて、それを見ているうちに眠りに落ちていた。

仕事にいきたくなかったし、トイレにいきたかったし、歯を磨くのもかったるかったし、思うさま朝食も食べたかったし、もっと寝ていたかったし、起きたらだらだらと『テレタビーズ』とかを観ながら筋トレをしたかったし、野菜くずで詰まった排水溝みたいな駅に長居もしたくなかった。

だからそれらを本能の赴くまま、シンプルな行動で叶えていくと恐ろしく気持ちがすっきりしたのだった。

その後、煩わしい職は放棄し、家賃の支払いはばかばかしいうえ銭もないため引き払い、携帯電話は下水の中。

俺は巨海を一人でさすらう巨シャチになったのだ。

そういうわけで、俺は今は適当なベンチや縁石に転がり、春風に吹かれながら大気を吸い、吐き、たまに哀れみを感じて近づいてきた人間が硬貨やパンをくれるのでそれをもそもそと食らい糞をそのへんで垂れ流す生き方をしている。

俺は自由なシャチだ。巨シャチだ。

『孤狼の血』感想回をPodcastで聴く

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