1
夏以降、さんざんなことばかりうち続く。
例えば、昨日まで楽しく冗談を言い合っていた間柄の人が次の日になって「昨日の冗談は言い過ぎなんじゃないの」と怒り心頭といった様子で電話を掛けてきた。
どの部分が言いすぎだったのかと問うと、その答えがいまいちピンとこない。だからこっちの返答も、「うん、うーん、あーね。まあそれに近い話になった記憶はあるけどそんな言い方したかなあ?」みたいな感じになる。そのまま伝えたらその人は怒りを口で表現しきれなくなったらしく、すさまじい衝撃音とともに電話が切れた。その晩自宅のアパートの鍵にボンドが流し込まれていて部屋に入れなくなっていた。
あるいは、時給の高さにつられて始めたコンビニの夜勤アルバイト。
深夜にことさら大きい革ジャンを着た男が自分が立つレジの前までずんずんとやってきて「俺BMW乗ってんだけど」と切り出してきた。ことさら胸を張りだしてぶんぶんに膨らんだ胸筋を強調した男は、横に爪がやけに長い細いギャル女を連れていた。ギャル女は心底面白そうにカメラを構えてやり取りを録画していた。
「はい?」
「BMW」
「ああ、外車の」
「とぼけてんじゃねえよてめえらのせいで傷ついたんだけど」
「はい?」
「あー、そういうこと言っちゃうんだとぼけちゃうんだ」
「やっちゃえケンちゃんやっちゃえ」
男に連れられ、駐車場を見に行くと、廉価モデルのBMWが止まっていた。男が言うには、駐車しようとしたところ車止めポールが内側に曲がっており、バック操作の目測が狂いテールランプを擦った。曲がったポールを放置したのはコンビニなので修理費を今すぐ払えと言う事だった。
店内に戻った自分の顔に男は顔をくんくんに近づけ「ハヨシロヨ。ブッコロスゾ」と言い、後ろではギャルが恍惚とした表情で男の勇姿を撮影していた。男の手が自分の襟元をつかんで頭突きをしてきた瞬間、自分の中で何かのスイッチが入った。
レジ横の盲導犬募金箱をつかむと、男の側頭部に叩きつけていた。
善良な人々のおかげで募金箱はかなりの重さを誇っていた。
ややあって男はへなへなと腰から崩れ落ち気絶していた。錯乱したギャルは金切声をあげ撮影をやめて逃げていった。
その後は幸い防犯カメラと、ギャルが自分で証拠を残してくれていたので司法からのおとがめはなかったが、アルバイトは当たり前にクビになった。
この街は広いようで狭い。
盲導犬募金箱で人を殴り倒す男という噂が広まったのか、アルバイトの面接も通りにくくなった。
あるいは、近くの薬局に行こうとつっかけを履いて「まあすぐ戻るし」と施錠をせずに5分ほど外に出たら空き巣に入られ、テレビと掃除機を持っていかれた。
腹が立つのは預金通帳や財布の類に手を付けた形跡があるのに、金がなさすぎることに哀れみを感じたのかそれらは放置していったことだ。
悪人に一握の善あり。
などと思っていたら、財布の中にあった最も大きな硬貨である500円玉がなくなっていたことに後日気づいた。
2
このように本当にろくな目に遭っていない。こはいかなる災いか。
いや、ちょっと待て。忘れているだけで夏以前もろくな事がなかった。友人が自分のギターを勝手に質屋に入れていたり、知らない間に家賃が上げられていたり、下の階のネパール人が置き配の荷物を盗んでいたことが発覚したりしていた。
運気。
もうこれはそういうスピリチュアルな領域の話になってくるんじゃないだろうか?神社でお祓いでもしたほうがいいのかもしれない。
しかしすぐに思い直す。と言うのも、自分は出くわした小さな地蔵尊などにお辞儀と手拝を欠かさずしており神仏などには普段けっこう腰を低くして生きてきたのだ。
じゃあどないすんねん。ふざけんな。道端に立っとるだけかお前らは。
主要な家具が減った部屋には独り言がよく響く。言っている間は無心だが、言葉が終われば虚無感とともに再び気分がくさくさしてくる。
何をやるにしても裏目に出て、なんとなく踏みつけられ、このまま終わっていくのだろう、というような。これからの人生への諦めが頭の中ではっきりと形を為していく。
唯一の娯楽であったテレビまで取られたため、もう寝るか手淫しか毎日やることがない。
ふと隙間風。
冬の乾燥してきりりとした風が、鼻先をふわっとかすめる。どこかの窓が開いていただろうか。
と同時に空腹を感じた。何もしていなくても腹は空く。
袖がほつれたダウンジャケットを羽織りつつ、ここ最近の惨状を知っている友人が慰めでくれた5000円札をポケットに詰め込んで外へと出た。
まだ4時だというのにもう太陽が山の端にかかろうとしている。山の稜線がオレンジ色の光に縁どられすでに街灯がつき始めている。冬の暮れは早い。年の暮れに伴い1日1日がどんどん短くなって行く感覚。人間の人生そのものだ。
振り返り施錠をしようと鍵穴にカギを差し込んで、やめた。
もう知ったことか。ぼけ。
3
居酒屋、烏丸。
駅前の繁華街で最も安く質の低い店に陣取り、お代わり無料のお通しキャベツにがっつき、飽きてきたら席においてある塩を合間合間に箸につけ、しゃぶって酒を飲む。
正直酒は強くない。よくわからないサワーを5杯ほど飲むと、安い店特有のアルコールが悪さをする感覚が脳髄を揺らし始め、悪酔いが始まる。
グラスが空になるのと同時に、先週からここでアルバイト始めましたみたいな女子大生が教育係の指示を受けてシャカシャカと寄ってきては「お代わりおだししましょうかぁ」と甘ったるい声で尋ねてくる。
その手に引っ掛かり続け5杯目だ。本当に気持ち悪い。
こうなると良くない。早々に店を出ると外はすっかり黒。街灯に照らされた街は灰色だった。
往来する人々はみなどこか楽しそうで、一見目的地をもって歩いているように見える。自分は歩き出すのだけれども人の流れにもまれ、きりきり舞い。川下に徐々に流されていく石のように、体内で消化される物体のように、ゆっくりと大きな流れにかき消されていく。
レンタルビデオ屋、明滅するネオンが導くよくわからないバー、あれはネパール人、シャッターが閉まった豆腐屋、干物店、質屋、グレーな成分を含んだタバコ屋、あれはパキスタン人。
太い道に枝分かれした細い道。血管のように張り巡らされた駅前通りを自分は無軌道に流されていく。
「うわっうわっなんだこのおっさん」「いって」「でもバスの方が早いんじゃない」「え~絶対行くかは分かんないけど行きたい」「酔っ払い多くね」「今ならお席ご案内できます」「ってか絶対ヤバいから」「えっ今どこ」「ホントにぃ~」「じゃあホテルで飲み直そうよ」「配信してるから今配信してるから」「うひょひょ」
繁華街の光がちかちかとして、人の声が頭の中でピンポン玉のように跳ね返る。
どいつもこいつも酔っぱらってへらへら意味もなく笑って、浮いて沈んでけたたましくて明るい場所に引き寄せられて。虫のようで。自分のようで。
たまらず自分は脇へ脇へ、細い路地へと逃げ込んだ。
とりあえず路地にもたれかかり、胃と脳の安定を図っていると足元をするりと猫が駆け抜けていった。
繁華街は絶好の餌場らしい。
黒い猫だった。猫はそのまま2つ行った奥の路地を曲がって消えた。猫を見送ると同時に喉奥から込み上げてくるものがあり自分は先の店で詰め込んだお通しのキャベツと水分を路上にぶちまけた。
夜が深まる前から飲み始め、これからという時間に既に酩酊しこんな路地裏でゲロをぶちまけている自分。盛大に吐いたせいで、履いてきたスウェットの裾にゲロの残滓がついていた。
くだらなさすぎて笑えて来た。
今はアルコールの効果もあってこうやってへらへらしていられるがこのまま自宅に帰ろうものなら非常に寂寞とした気持ちになり、ロープの結び方を本で調べ出したり、自分って何のために生きているんだろうとか、そういう用法容量を誤ると死に至るような問答を始めてしまいそうな気がした。
今帰るのはまずい。
幸い胃の膨満感、不快感は大分軽くなった。
自分は猫が消えた2つ先の路地へと歩く。
ゲロをまき散らしただけの虫野郎では終われない。
4
路地を曲がった先にはおでん屋があった。
年季の入った大きな赤ちょうちんが軒先にぶら下がっており、漆黒おでんと書かれている。知らないタイプのおでんだった。
躊躇。
大体、こんな路地裏も裏な場所にぽつねんと構えているこの店の異様さはどうだ。隣はどうもいかがわしいマッサージ店の裏口のようで、虚無の表情をしたアジア系の女性が虚空を見ながら煙を揺蕩わせていた。
いやしかし、このままゲロ男では終われない。
ううんううん。
迷った末に、ようやく自分はそのおでん屋の入り口に手をかけて「御免!」と奉行所の役人のような気持ちで押し入った。中はカウンター席しかない細い作りで、暖色の白熱電球が店内を照らしていた。
カウンターの向こうには、ぽこぽこと泡を立て続けるおでん釜が並んでおり、その前を禿げ頭の男主人がひとりあくせく行き来していた。客は数人いて、少し安心した。こんな路地裏でも客がいるということは、当たりの店の可能性が高い。
ややあってカウンター内の主人と目が合い、「あいてるとこ座っちゃって」と案内があった。自分は、もともといた客らと距離をとるようにカウンター席の端っこに座りアウターを脱ぐ。おでん屋ということもあり、ぬくもりのある湿気た空間が外との対比でひどく心地が良い。
これはいいかもしれん。おでんとか胃に優しそうだし。そう思い、席に立てかけてあったメニューを手に取ると、そこに先の路地であった黒猫がいた。
うわあっと思わず声を上げると、猫は驚くでもなくこちらを一瞥してカウンターの上を優雅に歩いて去っていった。食事をしている人の手を器用によけて。
「うちこういう店なんだけど、知らずに来たの?」
主人がおしぼりを差し出しながら、初めて河童を見たような目でこちらを見ていた。
どんな店だ。人が物を食べる空間を、さっきまで外を放浪してた畜生が歩き回る店と知っていたら入らなかった。
「知らずに来ました」
「でもおいしいからさ、食べてってよ。エボニーもいい子だしさ」
先の黒猫はエボニーと言う名前らしかった。しゃれた名前だった。自分は注文をすまし、じっと待つあいだ黒猫を目で追っていた。黒猫はカウンターをうろうろしたのち適当なところで座るとあくびをし、そのまま丸まって動かなくなった。
しばらく待つと、看板メニューとも言える「漆黒おでんセット」なるものが運ばれてきた。
真っ黒だった。具も、汁も何もかもが墨をぶっかけたかのように黒い。
反射的に腰を浮かし、他の客の手元を見る。同じような黒いおでんを食べていた。見た目は邪教的だがこれがここの名物、と言うことで間違いないようだった。大根と思われるものを割ると、湯気がわっと立ち上る。その湯気すら若干黒いような気がする。
恐る恐る鼻を近づけて香りを嗅ぐと……おでんだった。かぐわしい、普通の。
恐る恐る口に入れて舌の上で転がしてみると……おでんだった。しかも普通以上においしい。
飲み込んだ瞬間に、先までの憂鬱とした気分は吹き飛び、自分が明日も知れないゲロ虫であることも忘れた。
猫がいるからなんだ。美味いは正義だ。
出汁がすべての立役者だった。
味に深みも広がりもねえだろプールじゃねえんだぞ、とグルメレポート番組を見るたびに思っていたが自分が間違っていた。舌を撫でるコクも、咀嚼している間に鼻をくすぐる香りも、嚥下した後にさっと引いていく塩味も、すべてにおいて無駄がない。
口に入れ咀嚼し嚥下する。ただひたすらに心地よかった。食事は腹を満たす作業と思っていたが、本質食事は体験に近いのかもしれない、と寄せては返す味の波濤を舌で受けながら思った。
自分は無心でセットを頬張ると、財布の中身を確認してもう1セット頼み、それも瞬く間に食べてしまった。もっとゆっくり食べるべきなのはわかってはいたが手が止まらなかったのだった。
会計を済ませ、店の外に出ようとすると背後で猫の鳴く声がした。自分が座っていた席のカウンターに座り、黒猫は金色の瞳でこちらを見つめていた。
「また来いってさ」
主人が、レジスターから銭を数えてこちらに渡しながら言った。不思議と悪酔いは消えていた。
5
「おい」
誰かに呼ばれていた。
おでんをたらふく食べて帰路に就いた自分は、家に着くなり風呂にも入らずそのまま布団へダイヴ。あれを食べてから、体が内側よりじんわり熱を帯びながらとろとろと溶けるような感覚があり、それはすぐさま眠気と言う形で顕れた。サウナに入って外気に当たっているときのような、はるか昔、水泳の授業の後の国語の授業の時のような。何かに優しくからめとられるような眠気だった。
「おい」
再びの声とともに、瞼にひんやりと湿った冷たい何かが押し当てられた。うおっと叫び声をあげその何かを払いのける。すると手はその何かにあたって、『それ』はフギャッと音を立てて自分の背後へと飛んで行った。目をあけるとそこは自分の布団ではなく、あのおでん屋だった。
自分は椅子に座っていた。
結局あそこで潰れて眠っていたのか?なんということだ。しかし様子がおかしい、これは……
「そう、夢だ」
背後で声が聞こえた。振り向くとあの黒猫が床の上で大儀そうに立ち上がっているところだった。しっぽをぴんとたててゆっくりとあくびなんぞをしている。
「飛び起きるにしたって反応が大げさすぎる。予期してない反応はこの空間の処理に影響する」
今度は正面から声が聞こえた。
急いで前を向くと黒猫がカウンターの上に座っていた。目と鼻の先である。黒猫は湿った鼻先でこちらの額をつつくと「ふむ」と言いゴロゴロとのどを鳴らした。
「ほかの客がいないな。主人も」
「夢だからな」
「思ったよりしゃがれた声なんだな」
「これでも30年生きてるからな」
「なんでこんな夢を見ているんだ」
「私の夢の世界にお前が入ってきたんだ」
「お邪魔しました」
「まあ待て。招いたのは私だ」
猫は右足で顎を搔きながら、それぞれの質問にけだるそうに答えた。ぐつぐつとおでんが煮える音だけがする空間で、自分と老猫の問答だけが流れていく。
「なんで招いたんだ」
「招待状は選ばれたものしか受け取れないようになっている」
すると猫はどこからともなく現れたおでんが入った小鉢を右手ですすすっと差し出してきた。
「これが招待状だった?」
「そうだ。お前はこちら側の人間だった。30年生きて初めて会えた」
「こちら側って?」
「霊なるものの側ということだ。ヒトの姿ではなにかと力場に左右されやすい。さぞ生きづらい生を送ってきたと見える」
そういうと猫は座位を崩してカウンターの上で寝転び始めた。
「この夢は何だ」
「あれはただのおでんではない。こっそり私の霊毛を溶かして作ったものだ。だから黒い。政孝は濃口醤油で味付けをしているからだと思っているがね。で、普通の人間が食べれば、少し元気になって終わりだが、お前のような人間が食べるとこうして精神が共鳴する。ここでの会話は『彼ら』上位存在にもきこえない」
猫は続けて言った。
「お前に頼みたいことがある。夢は秘匿性が高いが本来いち個人のものだ。2人で使うことでどんな影響が出るかわからないし空間も綻びやすい。手短に伝えたいから黙って聞いてくれ」
「なんだ」
「1週間後に、数えきれないほどの人間が死ぬ。それを食い止めたいから協力してほしい」
「もう少し詳しく」
「何が起こるのかはまだはっきりとはわからない。ただ『彼ら』の会話を盗聴し、確信した。『彼ら』は確実に終わらせるために何かをしてくる。肉体から離れた魂は冥府に送られるのだが一気に流れ込むと今はまずい。冥府は魂を受け入れ再度送り出すのが役目だが、ここのところ送りだす量が減っていて機能不全に陥りつつある。魂の便秘状態だ。そんな時に大量の魂が注ぎ込まれれば冥府はハレツする。冥府がはじけると現世も連動してハレツする。紙の裏が消えて表だけ残ることはないだろう?」
猫はどこかそわそわし、しきりに辺りをうかがいながら話していた。何かに聞かれていないかピリピリしているようであった。話をうのみにするならばこの世界は思ったよりも壮大な、薄いガラスの上に成り立っているようだった。
「全くわからないが、具体的に何をしてほしいんだ」
「まず、お前には私と」
そこで、不意にプールに飛び込むような水の音と、猫の叫び声が聞こえた。
ぶつん、とテレビが切れたようにあたりが真っ暗になった。そして間を置かず足元からガラスの割れるような音がしたかと思うと足場を失い、自分も深い暗闇の底に落ちていったのだった。
6
落下する感覚が目覚めのトリガーになると言っていたのは『インセプション』という映画だったか。自分はばね仕掛けのおもちゃのように跳ね起きたのだった。
明晰夢と言うものがあるというのは知っていたが、あれがそうだったのだろうか。しかしどうしても夢の内容が気になった。風呂に入り歯を磨きながら、昨日の夢を反芻する。
夢の内容なんてものは起きると同時にぼんやりとし始め、1日の終わりには忘れてしまうようなものばかりだがどうも今回は違うようだ。あの黒猫、エボニーの話していた内容が一字一句脳にプリントされたように離れない。
カレンダーを見ながら一週間後を確認する。なんとなく赤ペンで丸を付ける。えっ、これぐらいしかやれることないよな?
ニュースを見ようにもTVもないし。携帯電話は料金未払いで回線が止められている。
部屋の窓を開けて街を見る。いつもと変わらない朝。といっても最近は夜更かしのうえ宿酔で昼すぎまで眠っていたので、この街の朝の姿を見たのは久しぶりだった。明るい日差しはあっても、吐息を白くする冷え込みが夜と朝は地続きなのだということを思い出させてくれる。
静かなものだった。
アパート前の路地を小学生たちが登校班を組んで歩いていた。小学生の1人がこちらを指さし「あーっ」と叫ぶと、付添の親がその子の手をはたき何事かを言い含めそそくさと集団は去っていった。平和だった。
それでもなんとなく落ち着かず、近くにあるコンビニエンスストアで週刊誌を立ち読みするなどして世界崩壊への糸口を探そうとしたが全く見つからなかった。今日の第一面は、あるプロ野球選手がかつて人類が打ち立てた偉業の記録を塗り替えたことをどこの紙面も得意そうに書いており驚くほど平和で退屈な内容だった。
やはりあのおでん屋にいくしかない。
結局たどり着いたのはシンプルな結論だった。あのおでん屋に行って、あの黒猫を問い詰め、異常者扱いされそうになったらへらへらと笑いながらごまかし、しれっとおでんを食べて再度夢を見て黒猫との接触を試みる。
夕刻を待って昨晩と同じように再び繁華街へと出る。
今度はことさらずんずんと胸を張って歩いた。思うにこの繁華街でフラフラしてる奴らというのは、昨日の自分と同じように表面上は酔っぱらったりして笑ったり楽しんだりしているようだけれどもその実大きな疾患を抱えている。
足りない何かを食品や他人で埋め、それでも埋まらないから毎日毎日何かを求めて同じ場所で、似たような場所でフラフラしてゲロ虫になる。
空虚。それが彼らが抱えている疾患だ。
そういう群れの中にあって自分だけは今、なにか超自然的で崇高な使命と言うか世界の核心に迫るような目的をもって歩いている。とても気分がよくなり、自分は人の流れなど気にせず歩むスピードも一切変えず、時には肩で人をなぎ倒しながら進んだ。
道を空けい。
道を空けい。
道を空けい。
7
昨晩と同じほどの時刻に、漆黒おでん屋に着いたが様子がおかしい。
赤ちょうちんに明かりがついておらず、店内に明かりもついていない。事ここに至って店休日という可能性を一切考慮してこなかったことに気づいた。
今日に限って店休日かよ。ふざけんな。こっちには気になりすぎる使命があるんだよ。
店先でじりじりとしていると我慢ができなくなり、店のドアをノックしてみた。反応がないのでもう一度。もう一度、もう一度。
最後の方はドアを殴っているような強さになっていたが、それぐらいでなければ聞こえないかもしれないじゃないか。仕方がない。だってほら、あと1週間しかないわけだし。
「何度叩いたってでてこナいヨ」
ふと右隣の建物から、少しなまった日本語が聞こえた。昨日入店前に見た虚無系アジア人が、煙草に火をつけつつ裏口から姿を現した。
「そこの店、夜遅くまでやってルからさ。あたしらも仕事終ワりに行くことあるンだけどさ」
そこまで言ってふーっと紫煙を吐き出す。吐く息の白さとはまた違う、濃い煙がゆっくりと空に昇っていく。
「そンで昨日も行ったンだけどさ。エボニーがさあ。最初カウンターで丸まって寝ててぇ、それはいつもだけど昨日はいきなり跳ねたり、寝転がって寝始めたりしてさあ。やべーおもしれーって思って見てたんだけど、寝返りしたときにさ。あたしらの目の前でおでん鍋に落ちちゃってさ」
プルプルと煙草を持った手が震えていた。
「気づいたマサタカが釜に手を突っ込んで、エボニーを引っ張り上げたんだけどネ」
鼻をすする音。自分は何も言えずただただ、その女が煙草を吸い終わるまで立ち尽くすことしかできなかった。
8
賢い喋り方に比してあまりにも間抜けすぎる終わり方に人生の悲哀すら感じる。
帰って来て早々、布団の上にダイヴ。やっていることは昨晩と同じだが、状況は全く異なる。自分はあの夢の内容が、夢で終わることがないような気がやはりしているのだ。あの黒猫が訴えたことは本当に起こるのではないかと。
さっきまでは、胸を張ってぐんぐんと歩けた。それは真偽を確かめる目的があったからだ。もっといえば解決策らしきものが見えていて、うまいことすれば自分はなにか大きなことを成し遂げられそうな兆しが見えたからだ。
それが消えた。
本当にお告げのようなものなら今日あの猫に仔細を聞けばよく、自分の幻だったならそれはそれで諦めもつく。今まで通りの人生が続くと自分に言い聞かせて。
しかし、そのどちらも示されることがないまま猫はおでんの具になってしまった。
今後自分はもうぐんぐんに胸を張って歩くことができないのだなあと漠然と思う。流れを気にせず逆らって、顔を前に向けて歩く自分のイメージはもうあの雑踏のなかで右へ左へきりもみをして消えてしまった。
仮にエボニーが言うように本当に一週間後に何かが起こるとして。ただ1人世界の破滅を知っている身の上としてそれを皆に教えて回るべきなのだろうか。キリストのように使徒を引き連れて悟りきった顔で街を練り歩いてみようか。しかし無理だなとすぐに思い直す。ついこないだまで精子だったような小学生に指を指されるような俺についてくる人間はこの街にはいないと思われたからだ。
もうアレだな、もうどうでもいいか。
何も知らず、おでんを食いながら、BMWに乗りながら、へらへら歩きながら、置き配を盗んで得をした気持ちになりながらある日、ぱんっと音を立ててハレツする。虚無になる。そういう方が幸せなんじゃないだろうか。
あと7日間でこの世界はダメになります。でも解決策は知りません。
解決策がない昏い未来だけを知らせたところでそれを知りたがる人なんているのだろうか。それが何の為になるというのか。
お前のことだぞエボニー。
日付はすでに変わっていた。あと6日。隙間風がやけに寒く、自分はせんべいのようにぺなぺなになった布団を頭からすっぽりとかぶり、あの黒猫のことを想う。
もうアレだな、もうどうでもいいだろう。
そう思って目を閉じて、生まれて初めて羊なんぞを数えてみる。しかし羊は徐々にその毛の色をくすませ、黒くなっていき、いつの間にかカウンターの上を走る黒猫に変わっていくのだった。
自分はまんじりともせず、布団の上から動けない。
