『シュガー・ラッシュ』の感想をPodcastで聴く
スピーク・ライク・ア・チャイルド
はい、ギリィです。
一回やってみたかったんですよね。名盤のタイトルを自分の文章に拝借する感じのやつ。なんかおしゃれじゃないですか、そんで書き手がなんか教養深い人間である感じも出るおまけつき。
まあ森の賢者ですからね。
この曲の作者であるハービーハンコックは「この曲では子供のような感性を示したかった」と言っていますが、何度聞いても「おしゃれでなんかいい感じ」っていうティッシュみたいに薄くて軽い感想しか出てきたことないんですよぉ~。
森の賢者の限界ですよ。
子供の感性を感じろって言っても、自分まだ中途半端に根が子供だからね。テレタビーズとか好きだし。エッオー!
でもまあ、ハンコックの言葉には続きがあって、「それは子供っぽいということではなく、大人になったことで失ってしまった子供時代のものとか、その時代を取り戻したいと願っているもの、純粋さとか奔放さといったものを、この作品は表現したものなんだ。そういった気持ちを取り戻せたなら、私たちは最良の状態になるんじゃないのかな?」と言っているのでした。
その言葉を知って以来この曲を聴くときは、「なーんか失ったっけなあ」と思いながらごろごろするようにしています。最良の状態になるために。
ぱっと思いつくのは乳歯とかですかね。
カスみたいな内省力ですね。森の賢者の限界ですよ。
で、シュガーラッシュですよ。
これ見てて思うのは、「無機物に命があると想像する視点」。これ失ったなあと毎回思うわけです。
自分が知らないだけで、現実と隣り合わせに彼らの世界がある。これ小さい頃は割と信じていましたからね。
自分の家は「食べものを残すと、夜間冷蔵庫の中で食品たちが会議をして廃棄された食品の仇討にくる。具体的には寝ている人間の口の中に無理やり入り込み窒息死に至らしめる。親戚のおじいさんはナスにやられて逝った」みたいな逸話がまかり通っていて、それはもう死ぬ物狂いで残さず食べていました。だって怖いじゃんか。
で、小2の時の夕餉。
父が酔いつぶれて、母がため息をつきながらイカの塩漬けが乗ったままの皿を流しに置いたときは「ああ、父とは今日でお別れなんだなあ。今夜イカか塩に殺されるんだ」と本気で思ってました。
泣きながら寝た一番古い記憶がその晩です。淡々と食器を片付ける母に底知れない恐怖も覚えていましたね。
でも父が翌朝生還したことで、徐々に「この家の教えなんかおかしくないか」となって、シュガーラッシュ的観点は徐々に失われていきました。
ほかにも「鏡にあまり自分を映しすぎると、手をつかまれてあっちの世界のあんたと交換されるよ」とか家の中は幼ギリィ的にはデンジャースポットが満載でした。
で、今。鏡の前に立ってても怖くないし、別に残すわけじゃないけど食事もゆったり食べられている(でも後遺症でいまだに残せない)。
不自由はしないけど、なんだか「未知の広がり」みたいなものは失われてるんですよね。
こう、目の届く世界で満足や安心しきっているというか。
幼ギリィは野菜の仇討や鏡の世界におびえていたころから、お絵描き帳で絵本を作っていたり、あるいは向けられたVHSの前で語っていたりするんですが、どれもこれも今の自分がひねり出す話よりずっと自由で面白い。きっと隣に未知がいたからですね。
間違っても今の自分はゲームキャラが閉店後実は自分のアイデンティティに悩む生命だなんて発想はできないだろうなあ。
ってわけで、制作をしたディズニーの方たちはハンコックの言う最良の状態なんだろうなと思うわけです。
失ったものを自覚して、それを作品にして取り戻しているわけですからね。
さすがディズニー……! と言いたくなる、そんな作品でした。
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