すぐにごめんなさいしようね

ギリィが得た、絶対確実幸福招来。


すぐにごめんなさいしようね

Image by Khoa Lê from Pixabay

(一)

先日、縁があってとある中華街を散策する機会があった。
見知らぬ土地での散歩は足も弾み、ついでに財布の紐もおおいに緩んだ。普段は間違っても買わないような麺を伸ばすための棒や豚足などを買い込み、大いに満喫した。

それで。さあ、もう帰ろうかというとき狭い路地の一角に「絶対確実幸福招来」という看板を掲げた古い店を見つけた。どうやら占いの店であるようで、すすすっと寄ってガラス戸の向こうを覗くと中には複数名の婆が木製の仕切りに区切られた机に座ってゆらゆらしていた。

普段は間違ってもいかないような店であったが、警戒心が緩んだ。長く覗きすぎたため1人の婆と目が合って挙句、婆は緩やかに笑みを浮かべると手招きをしてきた。こうなるとだめで、自分は「あっ、っす……」と会釈をしてその絶対確実幸福招来の店に入ったのである。

手相占いで1,200円。

まあこれも経験か、だって占いとかしたことないしこういう機会でもないと一生しないかもだし、まあ思ってたより安いし、意味もなく買った豚足より安いし。婆のよどみない説明を受けながら高速で思考を巡らせるが、結局は場の空気に押される形で、自分は絶対確実幸福招来を得るべく手を見せることになったのだった。

(二)

「今は先祖が守ってくれてるけども、徐々に今までのやりのこしを清算しなければ未来はない」

婆から告げられた将来を要約すると、大体そんな感じの内容で、これは幸運招来をほのかに期待していた自分の心を粉砕した。

婆によるとそのやりのこしが人生における気の流れのようなものを阻害しているという見解で、「やりのこしとは?」というこちらの決死の質問に婆はまたゆらゆらとして「なんでしょうねえ」と答えるばかりであった。

使えぬ婆だと内心で罵りたくもなったが、こんなことを聞かされた今となっては何が気の阻害になるかわからない。例えば婆を思うさま内心で毒づいたことで、のちのち食した豚足に付着した未知の寄生虫に脳がやられる、暴漢に襲われ麺の伸ばし棒で殴打されて脊椎が損傷するみたいな因果が発生するのかもしれなかった。

だから自分は必死に婆に対して湧き続ける不満に目を瞑りつつ何とか食い下がって「例えばどういうのだと思いますでしょうか?」と聞くと、仕切りに立てかけられたタイマーを見ながら婆は「間違ったことをして、それを償っていないとかですかねえ?」という答える。自分が「え、罪ってことですか?」と聞こうとしたところタイマーがなり占いは終了となった。

招き入れる手が早ければ追い出す手も早い。

ただ漠然とした不安だけを植え付けられて、その日は帰路についたのだった。それ以降、顔を洗うために目を閉じたとき、宅急便の荷物についてきた梱包材を潰して遊んでいるとき、はま寿司でマグロかカツオにするかを迷っている間などにふと「贖罪」という文字と婆がぶわっと目の前に現れては消えるということが増え、安らぐ時間が激減した。

確実に人生が悪い方向に向かっている実感があった。
絶対確実幸福招来とは何だったのか。

(三)

それで、最近縁があって『天使にラブ・ソングを…』という映画を見た。明るく面白い映画は良い。話に引き込まれているうちはあの婆は脳に侵入できないからだ。

曲者ぞろいでバラバラだったシスターたちが、主人公を中心にまとまっていく。そうした団結の強まりに比例して合唱の質が爆上がりしていく。人の絆を耳でわからせる映画なのだ。

もしかして小中でやっていた合唱ってこういう気付きを得るためにやっていたのでは? じゃあもっとちゃんとやればよかったなあ、惜しいことをしたなあと、酒を飲みながら観つつ、ぼんやりと考えていたところ、頭に閃光が走った。

佐々木さんのことを思い出したのだ。

佐々木さんは小中と合唱をするときに高確率で指揮に立っていた同級生で、非常に責任感が強い人だった。それゆえ、合唱そっちのけで隣に立つ男児の異様に鋭角なもみあげを手で触って遊んでいた自分はよく注意をされていたのだった。

小学5年生か6年生くらいのある日、また合唱中にもみあげをいじっていたら、いじられている男児が間奏の途中に「そこ……さっきスキーのジャンプ台に似ているって言われたんだけどどう思う」とボソッと尋ねてきたことで自分は甲高い鳥のような声で叫び笑いが止まらなくなった。やかましい自分のせいで合唱どころではなくなったため、演奏はいったん中断。

笑い続ける自分を大半の人は冷めた態度で見ていたのだが、佐々木さんはおそらく怒りのあまり泣き出してしまった。

こうなると、合唱を経ずしても団結ははやく、女児は佐々木さんのもとへかけつけ「ほんとサイテーだよねっ」「アンちゃん頑張ってるのにね」「殺す」などと口々に声をかけ、佐々木さんと一緒に教室外へ退場していった。ようやく事の重大さを理解した自分は、しかしてすべてが遅く、落ち着くためにとりあえず自分のもみあげに手を伸ばしたが思ったような落ち着きは得られなかった。

(四)

その後の処罰として自分は女児から1週間ほど口をきいてもらえなかったのと、もみあげの男児の隣には立たせてもらえないようになった。

佐々木さんとはその先言葉を交わした記憶がない。自分と目が合うと佐々木さんがうつむいてしまうようになったからだ。

これは紛れもなく贖罪不可避の案件で相違ない。佐々木さんがうつむいてしまうのも当たり前で、それに気後れして謝罪一つしていない自分は絶対確実に幸福にはなれない。

婆はこのことを言っていたのだ。

植え付けられた不安への一定の対処法がわかると途端に心が軽くなった。無心で顔を洗い、中断していた梱包材を潰す遊びを完了させ、はま寿司でマグロを軽やかに食う。

そして来た連休。善は急げ。とりあえず荷物をまとめて地元に帰ることとした。

しかし何と言って謝るべきなのだろうか。

昼下がり、『天使にラブ・ソングを…』を持って訪問してきたおぢさんが、「これを見てたら君に謝らないといけないって思ったんだ」とインターフォン越しに言ってきたら応対などしてくれるのだろうか? これはこれで新たな罪にならないか? というかこれを贖ったとして、似たような失礼をこれまで幾度となく人にかましてきていないか? つまり……。

新幹線の固いアイスを食べながらそんな疑問が明滅し、心の婆がゆらゆらした。

いやだめだだめだそんな弱気では。

絶対確実幸福招来。

そうつぶやくと車窓に雨粒が散り始めた。

『天使にラブ・ソングを…』感想回をPodcastで聴く

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