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年齢とともに失ったもの
年齢とともに、初めてのことに対する耐性が如実に、確実に落ちていっている感覚がある。
例えば、昨年末に『GUILTY GEAR -STRIVE-』という格闘ゲームを買った。これは対戦格闘ゲームで、こういうジャンルのゲームは門外漢だったけれど、ラムレザルというキャラクターのビジュアルがあまりにもかっこよくてエッチだったため買ってしまった。
それなのにもかかわらず、操作説明の段階で複数のボタン操作と、複雑かつ時に限定的なルール、または直感的なセンスを要求されることに耐えられず泣いてしまい、今はPS5のデータの片隅に追いやられている。
知らない情報を一気に流し込まれると脳がえずくようになったのはいつからか。
もとからか。いや、もとからなのだけど昔はそれでもかじりつく気概というかやる気があった。
現在はこんな体たらくなので、結局住み慣れたサイバーゴリラの森こと『Dead by Daylight』に戻ってきてしまう。何度このゴリラ向けゲームに呆れを覚えアンインストールしたかわからない。最低でも10回はしているはずだ。
それでも、外の生活に馴染めず泣いて帰ってきた自分に変わらぬ品質の暴言差別チャットといつでも優しく屈伸煽りして迎えてくれる森の仲間たちには感謝と安心と殺意を抱かざるを得ない。
ついに観る、映画『ドラクエ』
そんな自分が、年明け早々『ドラクエ』の映画を観た。観てしまった。
ドラクエ、FF、マリオ、スマブラ。
これらは世のエンターテイメントのいわばメインストリームであり、自分が子供時代に一切触れてこなかったものたちである。
「いやいや友達つながりで、絶対触れることになるでしょ」と言う人もいるだろう
確かに機会はあった。しかし家で一切触れる機会がないので深まらなかったのと、適当に話を合わせて、他人から摂取した情報をつぎはぎして会話をやり過ごしているうちに時は過ぎていった。
そのまま青年になってようやく趣味が合う友人ができ喜んでいたらおぢになってしまった。
ここまでくると、もう触れてこなかった残念感みたいなものは一切なく、むしろメインストリームに一切乗っからずに来たことに対する誇りのようなものに変わっていた。むしろ乗ってやるもんかと。僕は違うんだと。
でもついに、観てしまったのだ。
『ドラクエ』に触れて得たもの、失ったもの
映画『ドラクエ』の詳しい内容についてはPodcastで語っているため割愛するけども、悪くない出来だった。これでもかというほど王道な冒険に、世代交代という要素を加えた壮大なファンタジー。
これがメインストリームかぁと眺めている間、心のどこかでずっと自分の何かが無くなった気がしていたのだった。
さみしいような、すっきりしたような。
昔、かさぶたを丸めてボール状にして3年くらい育てていたものを母親に畑で焼かれた時のような気持ちだった。
あの時頬を伝った涙は、悲しさもあったけどもうかさぶたを無理してはがさなくていいんだという安堵のあらわれであったとも思う。
ああ、自分はようやく『ドラクエ』に触ったんだなあ。
触ってしまったんだなあ。
触れたんだなあ。
